桃屋と三木のり平

桃屋と三木のり平

ごぞんじ桃屋の「のり平」。さて、このキャラクターのモデルは誰かご存知ですか?知っている人は、「三木のり平」(もちろん正解)と答えますが、20代、30代になると「大村崑?」とか「桃屋のり平」という人も意外にいらっしゃる。

では、この桃屋の愛すべきキャラクターの出生の秘密を明かしましょう。

のり平といえば桃屋。桃屋といえばのり平

桃屋の創業は1920(大正9)年。翌年に食品メーカーとしては珍しく、新聞広告をはじめています。

戦争中は原材料の調達ができず、休眠状態の桃屋でしたが、1950(昭和25)年に「江戸むらさき」を発売。やがて広告も復活させます。

そして、新聞に「江戸むらさき」のおいしさを有名人が語るシリーズ広告をはじめました。

1953(昭和28)年、これを三木のり平さんにお願いしたところ、のり平さんは、「私がとやかく言うより、絵でも描きましょう」とご自分の似顔絵を入れ、シャレたコピーを添えてくれました。この新聞広告は「突き出し広告」という縦は新聞の一段分、横はおよそ6~7センチの小さなものです。このひとコマ漫画のようなスタイルが評判を呼び、「のり平漫筆」というのり平さんが描く広告シリーズとなりました。

舞台やラジオですでに有名だった三木のり平さんの人気が急上昇したのは、テレビが開局した1953(昭和28)年ごろからです。

のり平といえば桃屋。桃屋といえばのり平

舞台、映画、テレビで売れっ子になり、誰もが顔と名前を知る喜劇役者となりました。

当時、のり平さんは、黒ブチの大きなメガネがトレードマーク。大きめ鼻にメガネをかければ、誰もが三木のり平さんと分かったのです。

メガネをはずした三木のり平

桃屋がテレビCMを開始したのは、1953(昭和28)年。その後、少ない予算でありながらも、もっと印象的なCMをつくろうと考え、1958(昭和33)年、新聞のシリーズ広告でおなじみとなった、のり平さんのキャラクターでいろいろなパロディアニメをつくろうということになりました。

第1作は、歌舞伎十八番の助六篇でした。

メガネをはずした三木のり平

その頃、のり平さんと芸風の似た喜劇役者が現れました。大村崑さんです。その大村崑さんが「番頭はんと丁稚どん」「とんま天狗」でブレイクしたのは1959(昭和34)年です。のり平さんは、大村さんをかわいがり、「とんま天狗」に大村さんの父親役で出演。

その時に、「これから先も鼻メガネをかけてやるなら、やっていいよ」とメガネの芸を譲ってしまいました。

つまり、三木のり平さんは、桃屋のテレビアニメCM開始1年でメガネをかけない姿で、映画、舞台で活躍するようになりました。

後年ののり平さんは、「ボクはね、ひとつ何か当たると、それをすぐあきちゃうんだ。

ただ、桃屋のCMだけは、アニメだからあきないんだよ」とよく話していました。

メガネをはずした三木のり平

たいへん寂しいことですが、三木のり平さんは、1999(平成11)年に亡くなられました。

しかし、桃屋のキャラクター「のり平」は変わらぬ味を大切に、メガネスタイルでこれからも元気に活躍していきます。

三木のり平
プロフィール

三木のり平(みき のりへい)

1924ー1999年

本名:田沼則子(たぬま ただし)日本大学専門部芸術学科卒。

在学中から演劇活動を開始。俳優座を経て、喜劇役者として人気者に。

映画「社長シリーズ」などで活躍。森光子主演の「放浪記」をはじめ数々の演出を手がけた。

菊田一夫演劇大賞、読売演劇大賞最優秀演出賞などを受賞。

※本名は、田沼則子(たぬま ただし)

「則子」という名前、普通に読むと「のりこ」となります。第二次世界大戦の際、同級生が出征するなか、のり平さんには徴兵検査の知らせが届きませんでした。戸籍係が「のりこ」と思い、戸籍を男から女に書き直していたのです。役所に問い合わせ、やっと検査を受け、いよいよ入隊となったところで、終戦を迎えました。入隊予定日は、終戦の3日後、1945(昭和20)年8月18日になっていました。