アニメーション・ディレクター 鳥居宥之

今回お話をうかがうのは、アニメーション・ディレクターの鳥居宥之(とりい・ひろゆき)さんです。

1963(昭和38)年から1967(昭和42)年まで、のり平アニメのキャラクターをデザインするアニメーターを務め、その後現在までのり平アニメCMの演出を担当しています。テレビアニメの「宇宙少年ソラン」「サスケ」「カムイ外伝」「サザエさん」などの演出も鳥居さんのお仕事です。

アニメーション・ディレクター 鳥居宥之

私がアニメーターになったのは、テレビCM製作会社である日本テレビジョン株式会社(現TCJ)に入社し、制作部・動画課に配属されたことからです。

あのとき、撮影とか照明に配属されていたら、現在の仕事をしていなかったのかもしれませんね。絵を描くことは得意としていたものの、動画の作業がどのようなものなのかは、まったく未知の世界でした。1枚1枚、先輩の指導のもとに動く絵を描きはじめました。同社は、テレビ放送がはじまる前の1952(昭和27)年に創業しました。そのころ入社した先輩は、テレビを組み立てるのか、いや放送局だろうと思って入り、入社後に仕事の内容を知った人もいたそうです。私が入社したのは、桃屋ののり平アニメがはじまった翌年1959(昭和34)年。さすがに、テレビ放送もはじまっていて、CMをつくる会社だとわかっていました。しかし、まだテレビ受像機は高嶺の花。私の家にはありませんでした。当時、チーフアニメーターは大西清さんで、のり平アニメのほか、寿屋(現サントリー)の「アンクルトリス」などを手がけていました。わたしたちアシスタントアニメーターは、大西さんの描いた原画をもとにキャラクターの動きのひとコマを何百枚と描いていきます。1秒に24コマなら、30秒CMには720枚もの絵が必要になるのです。これをセルロイドにトレースして、裏から彩色。彩色といっても、白黒テレビの時代ですから、黒白グレーを7~8段階に分けて塗っていきます。なにもかもが手作業でしたが、充実感がありました。

1963(昭和38)年になると、CMのアニメ制作で定評があった日本テレビジョンにアニメ番組の製作依頼がくるようになりました。それも連続のテレビアニメ。大西さんは、「エイトマン」のアニメーターに、そのほかのメンバーも「鉄人28号」の製作へと移動していきました。そして、私がのり平アニメCMの2代目チーフアニメーターに昇格しました。最初の作品が「新婚篇」。新婚生活に憧れる23歳のことでした。

※本インタビューは、2004年3月16日に収録したものです。